院長ブログ
どのように指導するべきか、すごく悩んだテニス部の後輩
もうずっと以前に京都大学を卒業されているのですが、長年たくさんのテニス部員を指導していると、中には頭の中はどういう構造?って思ってしまうような人もいるわけです。現在も部員は男女合わせて60名くらいが部に所属しています。多い時は70名くらいの部員がいた頃もあります。このように多数の人間がいると、中にはすごく変わった部員もおられるわけです。もちろん天下の京都大学医学部に合格して入ってきた人なので、試験をすればすごくいい成績を取ることができるということはわかっています。天才となんとかは紙一重って言いますが、本当にそうかもって思うような人もおられるわけですね。
一番最初に???と思ったのは、彼が大学に入って初めてテニスを始めたそうなので、ボールを軽く投げてあげて、ネットの向こうに入れてごらんという指導をしてみました。ところが、すべてのボールがとなりのコートに入ってしまうのです。かなりボールを飛ばす角度がおかしなことになっているのです。ちゃんとネットの向こうに向かって打ってる?と聞くと、そうです。ネットのあちら側をちゃんと狙っていますと言うのです。それでとなりのコートにボールが入ってしまうので、それなら(私もまさかと思いましたが)、反対側のコートを狙って打ってみたら?と提案すると、彼はそれを実行したのです。隣のコートを狙ってボールを打つと、自分のいるコートにボールが飛んで行くという不思議な光景を見てしまいました。オーマイゴッド!ですよね。こんな部員は初めてだなあとびっくりでした。
その次に驚いたのが、練習中に彼の体にテニスのボールが当たってしまった時です。ソフトテニスなので、やわらかいボールです。当たったところで大したことはありません。でも彼はテニスコートでバタッと倒れて起きないのです。倒れるというのも不思議な光景でしたが、まわりの部員は見慣れているようで、1-2分したら起きますから、、だそうです。私も医師なので、てんかんの発作でもあるのかなあと心配しましたが、そんな病気はなく、ただ急に眠くなったように倒れるだけなのだそうです。オーマイゴッド!
その次に驚いたのは、ラケットの振り方が力が入りすぎていたので、もっと力を抜いて、軽く、軽く、、、と言うと急に彼は目を閉じて、だまってしまったのです。ずっとそのままの状態が何分も続いたので、目を閉じて何をしているのかな?とそっとそっと聞いてみました。彼の回答は、今までコーチや先輩達に教えてもらったことを最初から全部思い出しています。もうすこし待ってください、、でした。オーマイゴッド!もう理解できません。不思議な人ですよね。それで言われるままにずっと待ってみました。やっと目を開けて、今、すべて思い出しました。それではアドバイスをどうぞ、、、って言われてもなあ。待ちくたびれて何を指導するんだったか、忘れてしまいました。降参。
とてもおもしろい彼の考え方は、本来右利きで、右手にラケットを持ってテニスをしていたのですが、サーブを打つ時はなんとなく狙った方向にボールが飛んで行きましたが、打ち合いになると、右ではほとんどネットにボールがかかってしまって、、という悩みがあったようです。途中から彼はサーブは右手で打って、普通にボールを打つ時は左でやり出したのです。右手でミスが多いのなら、通常は右手でもっともっと練習をしますよね。これが普通です。でも彼は右よりも左で打ったほうがいいのではないかと思ってそういう練習を始めたのです。ある意味すごいですよね。それで何年かすると彼は試合の時、右手でサーブをして、それ以後のラリーは左手にラケットを持ち変えるという不思議なテニスをするようになっていました。公式戦では相手ペアは皆さんそんな選手を見たことがないので、対戦相手の方々は試合の途中でえ???、はあ???みたいなことになっていました。でもやはり右でも左でもミスが多い人だったのでなかなか試合には勝てませんでした。
でもこういう頭の持ち主って学問の世界では大切な人材なのかもしれません。普通の人なら思いつかないことを思いつくというのはある意味才能です。私はこういう人がノーベル賞を取ったりするのかもしれないと信じているようなところがあります。幸い彼は研究の世界に入ったそうなので、私のクラブからもノーベル賞の受賞者が出るかもしれないという楽しみがあるわけです。京大医学部ソフトテニス部の卒業生の中にはすでに毎年ノーベル賞候補に名前の出ている後輩もいます。テニスの指導で苦労した彼もそのうち候補者の中に入るような気がしています。医学部の硬式テニス部の卒業生にはノーベル賞を受賞された本庶教授がおられます(どうでもいいことですが、本庶教授の京大でのニックネームはダースベーダーです。人柄が何となくそんな感じ、、ここだけの話です)。医学部ソフトテニス部はまだ誰もノーベル賞受賞者は出ていないわけですが、そのうちきっとうちのクラブからもノーベル賞の受賞者が出ると期待しているわけです。楽しみでワクワクしませんか。
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私のメンター達、京都大学形成外科一色教授
京都大学に形成外科講座ができた時の初代教授が一色先生です。もともと耳鼻科におられた先生で、専門は声帯と唇裂口蓋裂です。特に声帯の手術では世界的に有名な教授で、韓国出身の有名なオペラ歌手が甲状腺の手術の結果声が出なくなり、この声帯の再建手術を一色先生が担当されました。オペラ歌手としての声を取り戻す手術を担当された話はNHKでも放送された有名な話です。このオペラ歌手は現在はヨーロッパで舞台に復帰されて活躍されています。
一色先生は私が京都大学形成外科で勤務していた時の教授ですが、実際のところほとんどの手術指導は当時大学の講師であった冨士森先生が担当されていたので、一色教授には手術の指導はほとんど受けていません。でも私にとってはメンターの一人です。私にとっていい指導者であったのは、とにかく日本国内でも外国でも、私が手術の見学に行きたいというと、毎回ぜひ行ってきなさいと絶対に許可してくれたことです。そういう意味で彼は間違いなく、私のよき指導者でした。
ただとても頑固な性格で、そのことだけはある意味すごい方でしたが、、。私が小倉記念病院に赴任したのは彼の指示によるものです。当時私は大阪赤十字病院の形成外科に勤務していました。スタッフは4人の医師でした。部長、副部長、そして私の2年上の先輩と一番下の私でした。ただ、その頃に大阪日赤で乳がんの乳房再建ができる医師は私一人でしたし、マイクロサージャリーと言われる組織移植ができる医師も私一人でした。私より上の医師は部長を含めて、誰もこの手術ができなかったのです。そういう理由で私が一番下のランクの医師でしたが、担当していた患者さんの数は私がダントツに多かったわけです。
学会での発表や論文数でも大阪日赤の先輩医師たちより私の方がずっと多かったので、一色先生がそこに目をつけたように思います。ある日京大の一色教授から私に電話がかかってきました。九州の小倉記念病院に新しく形成外科を開設することになったので、2ヶ月後に新しくできる形成外科の初代主任部長として小倉に行ってほしいというものでした。当時大阪日赤で私が担当していた患者さんの数がとても多かったので、せっかく盛り上がっているので、九州には行きたくありませんとその時は返事をしました。私が担当している多くの患者さんたちはどうなるのですか?ということも伝えました。でも数日してからまた一色先生から電話があって、九州に行く決心はついたかね?と言われるのです。その時に再度いやですと私は回答しました。そうすると一色先生は一度京大に来なさいと言うのです。
その後いやいや京大に行って、一色先生と話をしました。どうしても九州には行きたくありませんと私もしつこく言いました。でもその時、一色先生はブチっとどこかが切れたような感じで、君が九州に行きたくないのはよくわかった。それでいつ行くのかね?、、、こんな会話ってあります、普通?その時は、教授ではなく、あーこのおっさんは頑固でもうダメだーって、目の前真っ暗、絶望のどん底でした。結果、あきらめて小倉記念病院に赴任になったわけです。今は大学教授にこのような人事を取り仕切る権限はほとんどありません。でも当時は教授の言うことを聞かないと医局を追い出されてしまうというペナルティーがあり、医局を追い出されると、なかなかいい病院には就職ができなかったわけです。このようにあり得ないくらい頑固な先生でしたが、どこの医師の手術を見に行ってもいいという医師としてのレベルアップにはとても積極的な先生でした。そういう意味でこの教授にはとてもお世話になったなあと今も感謝しているわけです。もちろん、このクソがんこオヤジ!と思っている部分もほんの少しは残っているのですけどね。
投稿者:megaclinic
獺祭というお酒
岩国にある旭酒造で作られている獺祭というお酒は私の大好きな日本酒の一つです。いくつもシリーズがあって、私はここの磨き2割3分というのが最高峰だと思っています。この会社の使っているお米は山田錦というお米で、その磨きの程度で3割9分とか2割3分などのランクがあるわけです。好みもあるのでしょうが、私は3割9分の獺祭は少し甘味というかまろやかさが不足していて、2割3分だと口当たりも奥深さもちょうどいい感じに思えるのです。
この獺祭のシリーズはもっと種類があって、磨きの程度をさらに上げたシリーズとして(磨きその先へ)という2割3分よりもずっと高価格のお酒があります。さらに最近ニューヨーク郊外でも獺祭がお酒を作り始めたのだそうです。このアメリカ生まれのお酒はダッサイブルーという名称になっています。私はこのどちらも飲んだことがあるのですが、磨きその先へというシリーズはお米を磨く程度が2割3分よりまだ上のランクになるわけですが、ここまでお米を磨いてしまうと、もうお酒を通り越して、少し甘味が強くなりすぎているように思います。もちろんこれはとても個人的な意見ですが、、、。はっきり言って高価格であっても私はあまり好きではありません。ニューヨーク生まれのダッサイブルーについても、2割3分ほどのあの心地よい余韻が残らないという印象があります。まだまだ物足りないわけです。
ついでですが、獺祭にスパークリングってありますよね。これはたしか4割5分なのですよね。でもこれって私はかなり好きなんです。初めてこのスパークリングを飲んだのはかなり以前に東京ディスニーシーでした。スパークリングだと4割5分でもとても美味しいって思ってしまいます。不思議ですね。特にどういうわけか、獺祭スパークリングはディズニーシーで、そばにミッキーマウスなんかがいる所ではすごく美味しいお酒に思えます。ミッキーのせいなんでしょうかねえ?
でもまあ、とにかく、要するに獺祭は2割3分がベストです。絶対!ごちゃごちゃ言ってはいけません。黙って飲むべし!
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私のメンター達、デューク大学ジョージエイド教授
私が京都大学病院に勤務していた頃、アメリカで乳がんの乳房再建が始まりました。インプラントを使用する方法や背中やお腹の皮膚と脂肪を利用するような方法などです。この手術の当時世界のトップだった大学がアメリカのデューク大学でした。同時にバストの豊胸手術や下垂修正、大きすぎるバストの縮小手術などの美容外科分野の手術も世界的に有名な大学でした。この大学のジョージエイド教授が世界のトップとして多くの論文も出され、教科書もいくつか執筆されています。
当時この教授の論文をたくさん読んで、直接この教授の手術を見て勉強したいと思い、教授に連絡をして見学を許可してもらいました。最初に見学に行った時は多分1週間程度の滞在だったと思いますが、日本に戻ってきて京都大学の解剖学教室で屍体を使わせてもらって、この手術の練習をさせてもらいました。でも、やってみるとわからないことがあれこれ出てきて、その後も2回デューク大学に行って、再度勉強をさせてもらいました。さすがに3回も行ってあれこれ勉強をしているとやっと自分でもできるようになり、その後私自身は大阪日赤や九州の小倉記念病院などで多くの乳房の手術をするようになりました。小倉記念病院では形成外科の主任部長として手術をしていましたが、当時乳がんの乳房再建では小倉記念病院が日本一の症例数になっていました。現在は東京の癌研有明病院が日本一の症例数になっていますが、、、。
私はデューク大学のジョージエイド教授には乳房再建では脂肪注入以外のほぼすべての乳房の再建方法を習いました。美容外科領域の手術もとても多かったので、バストをいろいろの方法できれいにするという方法の多くもこの教授から指導してもらいました。とても優しい人で、わざわざ日本から遠くまでよく勉強に来たと大変かわいがってもらいました。この教授の若い頃は医学の世界のトップはドイツでした。彼もいろいろの手術を勉強したくて、度々ドイツのあちこちの病院に手術の見学に行かれたそうです。その頃の自分と私がよく似ていると話をされていて、あれこれ便宜を測ってもらったことはとてもありがたいことでした。3回この大学を訪問したのですが、毎回滞在費も安くすむほうがいいだろうと言われて、3回ともデューク大学の当直室の一つを使用させてもらっていました。これも当時の私にとっては本当にありがたいことでした。デューク大学は本当に美しいキャンパスで森の中にある大学のような素敵なところです。写真はジョージエイド教授、デューク大学のキャンパスと毎回私が滞在していた当直室です。
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私のメンター達、ジョージ・ワシントン大学レターマン教授
私がメガクリニックを開院する直前まではアメリカのワシントンにあるジョージ・ワシントン大学形成外科に留学をしていましたが、ここで各種の美容外科の手技をたくさん教えてもらったのがここの大学のレターマン教授です。とてもいい先生で、初めてお会いした際はわざわざ、私を空港までご本人が迎えに来てもらいました。こういう教授って他にはどなたもおられません。たびたびご自宅にも招いてもらい、奥様とも一緒に食事をしたり大歓迎を受けました。手術の細かい説明なども丁寧に教えてもらい、本当にありがたいことでした。 日本にも何回か来られて、その際はお世話になったお礼もあるので、京都などでお礼の歓迎会をさせてもらいました。
この教授についてとてもありがたかったことはせっかくアメリカに留学しているので、その間に何人かアメリカの優秀な形成外科医や美容外科医の手術を見ておいたほうがいいと言ってもらえて、それぞれこの分野ならこの医師がいいなど、多くの医師を紹介してもらったことです。お陰で、アメリカのあちこちの大学や個人のクリニックなどで多くの貴重な手術を見て勉強することができ、本当にこの先生の指導者としての姿勢には感動でした。写真は教授のご自宅で、後ろの絵はご長男の方だそうです。
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私のメンター達、ニューヨーク大学の二人の教授
私が初めて、フェイスリフトの手術を見学して勉強させてもらったのはニューヨーク大学の形成外科でした。当時フェイスリフトの手術をかなり多くアメリカでされていた教授お二人がニューヨーク大学におられました。二人とも世界的にかなり有名な先生方で、お一人はトムリース教授、もうお一人はブレアロジャース教授でした。ニューヨーク大学病院や大学の関連病院であったマンハッタン病院などで2週間ほどお二人の手術をたくさん勉強させていただきました。その後もアメリカ形成外科学会やアメリカ美容外科学会、国際美容外科学会などで何度もお会いする機会があり、お二人の教授にはずっととてもいい指導者として接してもらいました。お二人ともいつも素晴らしい結果を出されていて、初めて美しいフェイスリフトの手術結果を見た時の驚きは今でもはっきり覚えています。
写真は順にトムリース教授、ブレアロジャース教授です。
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私のメンター達、冨士森良輔先生
昨年末の台湾形成外科学会(TSPS)では3つの講演を依頼されたのですが、いずれも学会側から講演のタイトルを指定されたものでした。こういう指定はとても珍しいことで、ほとんどの場合、大体このようなテーマで講演をお願いしたいが、具体的にはどういうタイトルにしますか?ご指示くださいというようなことで依頼が来ます。今回は本当に異例で、3つの中の一つのタイトルはMentorship and Skill Development in Aesthetic Surgery というものでした。Mentorという言葉はあまり一般には使われない言葉かもしれません。要するに先生というより指導者、よき指導者、あるいは師匠などとも訳すことができるような言葉です。台湾形成外科学会の希望としては私自身が美容外科の指導者としてどのような方法を取ってきたかということを話してほしかったそうです。でも、あらかじめ講演の打ち合わせとして、私自身は本当に多くの良き脂肪者を求め続けた結果、実際に多くのメンター達に恵まれて、自分が育ってきたという感覚があります。少しでも多くのメンターを探す努力も必要ということを講演では話しておきたいと説明をして、講演では私が今まで出会った多くのメンターについて話しました。講演のプレゼンを作ってみると実に多くのメンター達にお世話になったなあと自分でも驚きました。せっかく台湾での講演のために古い写真を探したり、懐かしい写真を引っ張り出したりしましたので、ここで私の出会った多くの素晴らしい私のメンターの先生方を紹介しておきたいと思います。
まず私が最初に形成外科の研修を開始したのは京都大学病院の形成外科でした。この時はまだ形成外科が講座にはなっていなかったので、当時は形成外科の教授は不在でした。形成外科チームのリーダーだったのが冨士森良輔先生です。当時、京大病院では火傷、外傷、皮膚がん、顔の先天奇形、皮膚腫瘍、あざなどの治療がかなり多く、当時日本で一番美しい再建手術を行えるという名声が日本中で評判だったので、外来の診察に出ていて、新しい患者さんが来院されて手術の予約を入れられると、この患者さんの手術は大体3年くらい先に予定が入るという状況でした、もちろんがんや新鮮熱傷などのように緊急性があるものが優先されていましたので、それ以外の緊急性のない病気については大体3年ほど待ってもらってやっと手術の順番が来るという状況でした。
そういう美しい再建手術を多く行われていたのが、この冨士森先生でした。指導はとても厳しいもので、火傷でひきつったケロイドなどの治療については皮膚にどのようにメスを入れてほしいか、皮膚にいつもいつも聞いていれば、いつか正しい答えを皮膚が教えてくれるようになるというような指導でした。手術後の管理なども手術の一部であり、圧迫固定やテーピング、ときには各種の装具やコルセットやスポンジなどの使用も大切でこのような手術後の努力があって、初めて美しい永久的な結果が得られるというような考え方や多くの財産を彼から受け継ぎました。
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インドネシア形成外科学会前会長テディープラテシオノのご家族
インドネシアの前回の形成外科学会の会長をされたテディーは日本が大好きな方なので、時々来日されます。その際に大阪や京都に来られる時は大体いつも一緒に食事をしています。今回は年末から北海道や高山、名古屋などを観光された後に大阪に来られました。あらかじめ連絡をもらっていたので、今回はご一家のご希望もあったので和食のお店を予約して食事を楽しみました。
何度もご家族とはあっていますが、息子さんもお嬢さんもよその子供って、本当に成長が早いですよね。急にまた大きくなられたようで、食事の量が全然足りなかったのではないかなあとあとからとても気になってしまいました。奥様もお医者さんで、彼女は婦人科なのだそうです。テディープラテシオノは形成外科では手の外科医で、そのほかいろいろの美容外科の手術もされています。いつも国際美容外科学会や東洋美容外科学会でインドネシアの代表として大活躍されいてる方なので、アジアではとても頼もしい医師です。
かつて国際美容外科学会ではアジアからの会長としては私を含めて3人の医師が会長になっています。ただ、この3人全員が日本人なのです。私の夢は次のアジアからの会長は日本以外の国の医師になってもらいたいということです。テディーも強力な候補だと私は思うのですが、なぜか投票の結果はアジアの医師への世界からの投票数が集まらないので、落選が続いているという結果になってしまっています。写真は大阪のある和食のお店でのご家族の写真です。
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ハグについて
日本ではハグという習慣はありません。でも外国では普通によく目にする光景です。今は私も慣れてしまって外国では普通に挨拶としてやっています。ただこれには私もしまったと思うような経験があります。私自身、日本生まれの日本育ちなので、外国のハグという挨拶は最初はなじみがなかったわけです。
いつからか、特に国際美容外科学会(ISAPS)の講習会での講演や各国の美容外科学会、形成外科学会などから招待講演を依頼されて、あちこちの国に行くことも多くなり、そういう中で世界に次第に親しい友人が増えてきたわけです。私が初めて、国際美容外科学会の講習会(ISAPSコース)で講師としてデビューしたのはフランスのパリでした。パリコースのタイトルは世界のISAPSのベスト美容外科医(From the Best of ISAPS)というタイトルでした。3日間の講習会でしたが、ここで当時ISAPSの会長だったトムビッグスというアメリカのドクターと4−5回目にあったように記憶しています。毎回彼の奥様も一緒だったので、奥様もよく知っていました。パリでご夫妻に久しぶりにお会いした時に彼の奥様が笑顔で私にすごく接近してきて、もう抱きつかれる?と思ってしまったのです。それまでハグという経験が一度もなかったので、とっさに私はびっくりして一歩後ろに下がってしまったのです。ほぼ同時に私はあ、しまった、今のハグだったんだと気づきましたが、奥様もはっとされて、あ、日本人はお辞儀をする習慣だったのだと気付かれたようでした。その時はさっと下がられて、握手だけをされました。その場で私はなんて失礼なことをしてしまったのだろうと後悔、後悔でした。それ以後外国では親しい人は男性でも女性でも、とにかく何度も見たことのある友人は男女を問わず、ハグをするようにしています。これはわりに欧米では大切な礼儀のように思います。
余計な話になりますが、男性同士でもハグはやたらにやっています。その中でときには私の頬にキスをする男性医師もおられます。女性からはほとんど私の頬にキスまでする方はありませんが、男性では世界に3人はおられます。もう熱烈に強く抱きしめてキスをされる男性医師は、アルゼンチン、オーストラリア、ギリシャに一人ずつおられます。中でもオーストラリアの先生(現在国際美容外科学会の理事の一人です)はヒゲがあるので、ヒゲのある人が頬にキスをすると、こちらもかなりチクチクするのだなあと生まれて初めて変な経験をしているわけです。思い切り男同士が抱き合って顔を引っつけてキスまでするのは、なんと言いますか、日本ではちょっとこわい光景かもしれないです。どういうご関係?みたいな、、、。でも3人とも皆さんすごく優秀で、きれいな手術をされて、ほがらかでいい人なんですよ。
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直美という問題について
最近直美というのだそうですが、大学を卒業してすぐに美容外科、特に大手の美容外科に就職して、そのまま美容外科医になろうとする医師が急増しているという話を聞きます。本来、医師として成長するためには、大学を卒業して国家試験を受けて、その後は研修期間があって、この間に外科や救急などの短期間の研修を受けて、その後は自分がなりたい医師、たとえば内科や整形外科などの研修医や医員としてどこかの病院などで指導医からあれこれ指導してもらいながら、成長していくことになります。これらの通常の成長を経験する医師たちはその間とても安い給与で働いておられるわけです。私も形成外科を15年間やっていましたので、その間大した給与はもらっていませんでした。ところが直美に走れば、一部の大手の美容外科などでは年収2千万円などとも言われていますが、こういう収入が大学を卒業してすぐに得られるというのが直美の問題の主な原因だと思います。
普通は美容外科医になろうとすると、まず形成外科でいろいろの再建手術を経験して、基本的な傷の経過や対応を学び、形成外科の経験が4-5年経ったところで日本形成外科学会の専門医資格を取るための試験を受けます。これに合格してはじめて形成外科専門医の資格が取れるわけです。日本美容外科学会(JSAPS)や国際美容外科学会(ISAPS)の会員になるためにはこの日本形成外科学会の専門医資格がないと会員にはなれません。ただ残念なことに日本にはJSAPSと同名の日本美容外科学会があり、こちらは区別するためにJSASと表記されています。こちらの学会は形成外科学会の専門医資格がなくてもすぐに学会の会員になることができます。ここで会員になった美容外科医は簡単にそちらの学会の資格である日本美容外科学会専門医という資格がもらえます。これってJSAPSと同じ名称なので一般の方には区別ができないので、ややこしいですよね。
形成外科の十分な経験がない医師は美容外科医になっても、万一合併症が起きた場合、この再建手術、つまり修正はできないことがほとんどだと思います。また二重まぶたを作る切開法とか、脂肪注入でいい結果を出すのはかなり難しいことなので、このような研修もないままになってしまいます。最近成長因子による合併症も多発していますが、これは脂肪注入でいい結果を出すことができない医師にとっては、単純に成長因子の注射で注射部位の脂肪が膨れてくれるので、とても簡単な治療になるわけです。これでかなりの収入を得ている医師もおられるようですが、成長因子の問題はしこりができたり、脂肪が膨れるのをコントロールできないことです。異常なふくらみやしこりができたり、凹凸ができたり、傷みやかゆみで苦しんでおられる方もとても多いわけです。直美に走った技術のない医師にとっては他にも非吸収性の物質の注入による豊胸手術や成長因子などの安易な治療に走ることも多いかと思います。これらを安全で簡単な方法などと広告をするような医師がいつまでたっても減らないということになりそうで頭の痛いことです。
今後さらに別の問題は、美容外科医が多くなりすぎて、現在の韓国のように新しいクリニックができる一方で、廃院になるクリニックも多くなったり、美容外科医が多すぎることで美容外科医として仕事がなく、中国に移住するような韓国の韓国美容外科医も多くなっているのですが、このような状況が日本でも将来起きてくるのではないかと、とても心配になっています。一方で日本の田舎では医師が不足していたり、将来日本はどうなるのでしょうねえ。
投稿者:megaclinic